2006年06月23日
慰霊の日
大正7年7月本部生まれ。
3歳で母親の手に引かれ、東京へ上京してきた私の父がいた。
だから、戦前の東京暮らしはよく話して聞かせてくれたが、沖縄の
そして本部の話を聞いたことはまったくなかったのだ。
3歳で母親の手に引かれ、東京へ上京してきた私の父がいた。
だから、戦前の東京暮らしはよく話して聞かせてくれたが、沖縄の
そして本部の話を聞いたことはまったくなかったのだ。
開戦、召集により海軍へ入隊。
昭和19年夏、東京都柳町29番地・・・家が戦時の滑走路として使える道路として
取り上げられた祖父、祖母は、父の下の弟妹たちを連れて、住むところを捜し求め
拓北農兵隊の一団として、北海道に渡り入植している。
沖縄に帰りたくても、戦禍がますますひどくなりそうな話が錯帰していて、
どうしようもなかったと、戻りたくても帰れなかった。そういう時代だったのである。
戦後、本土上陸阻止のために犠牲となった故郷を
知るにつけ、 沖縄の土を祖母は二度と訪ねようとはしなかった。
私が生まれる前に他界した祖父も同じだが、今は亡き父は、
沖縄返還前の年と、海洋博の年、2度沖縄本島へ旅をしている。
以来、我が家にとって、1993年まで沖縄は、遠い祖先の土地だったのである。
昭和19年夏、東京都柳町29番地・・・家が戦時の滑走路として使える道路として
取り上げられた祖父、祖母は、父の下の弟妹たちを連れて、住むところを捜し求め
拓北農兵隊の一団として、北海道に渡り入植している。
沖縄に帰りたくても、戦禍がますますひどくなりそうな話が錯帰していて、
どうしようもなかったと、戻りたくても帰れなかった。そういう時代だったのである。
戦後、本土上陸阻止のために犠牲となった故郷を
知るにつけ、 沖縄の土を祖母は二度と訪ねようとはしなかった。
私が生まれる前に他界した祖父も同じだが、今は亡き父は、
沖縄返還前の年と、海洋博の年、2度沖縄本島へ旅をしている。
以来、我が家にとって、1993年まで沖縄は、遠い祖先の土地だったのである。
Posted by Rt NAHA at 14:33│Comments(0)
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